ウルトラマンメビウスのファンサイト・メビウスベルト【ウルトラマン・マニアック】

ウルトラマンメビウス・ウルトラマン・マニアック

【制作者関係者対談】

円谷英二について

佐川「茶の間で楽しめるものをというような意気込みですよね。」
中野明慶「まず、子供が見て面白い 楽しい映画。」
鈴木「すごく優しい、お父さん的な人でした。」
中野「いろんな勉強のために、当時 キングコングのフィルムをおやじが持ってい て、それを投射して 1コマだとどれくらい動物が動くのかと・・・。」

中野稔「特撮って、当時は、有りもしないドラマを高等向けで映像にしていくガ キのものだというイメージしかなかった。円谷もツブラヤと読める人がいなかっ た。エンタニとか、マルタニとか・・・」

中野明慶「特撮っていうのは、何やってるんだ?あいつら・・・というところが あって、現場で撮影したらもう終わりという世界じゃないでしょ。現場で撮った ものを後で処理するという段階もあるし、それを加工してまた現場に戻したりみ たいな。そういうことをやるからね。撮影終わってるのに何でカット上がってこ ないの?って。つまり、理解できないわけですよ。あれ、仕事してないんじゃな いの?ツブラヤじゃなくって仕事サボってるズボラヤだって・・・」

中野稔「飛行機に憧れていたという部分の中でも随分役立っているよね。全部ピ アノ線だよ。それを消す技術もないんだから。消すのは(それを)映らないよう にしたカメラマンの技術だった。」

土屋「僕が初めて映画に出たのは、七人の侍。その途中くらいからゴジラってい う声を耳にしたんですよ。僕は好奇心旺盛だから、まず黒澤さんに聞いたが知ら ないと言われて、ちょんまげ付けたまま特撮のセットに行きましたけど、丹念に 作ってるわけ。なかなか本番が始まらないんですよ。延々と時間がかかってね。 」

土屋「助監督が来て(こっそり)本番始まりますよって言うんですよ。そうする と走って行くんです。円谷さんが僕の顔を見ると・・・ようい、スタート!って 言って、ドチャクチャやるんです。まあ、何て楽しいんだかと思いました。」

中野明慶「いわゆる、一技術者じゃない訳です。だから、ある種 エンターテナー の要素というか・・・やっぱり、自分が楽しんで面白いというものにのめり込め る感性を持っていないと面白いものは作れないと思う、ディレクターというのは 。」

鈴木「タコをやりたかったらしい。それでタコの研究をされて、8本も足があっ て、動きが複雑ですごく難しい。そういう複雑で異様な形を追求して、もっと面 白く見せたいという気持ちがあったらしい。」

飯島「これはね、テレビの発足間もない時代ですからね。映画界から来た人、舞 台から来た人、そして僕のような素人から入っていった人。それぞれのプライド 、やろう!という気持ちがあるでしょ。それに大御所の円谷英二さんじゃないで すか。だから、尊敬する気持ちとやってやろうという気持ちと。みなさんそうだ と思うんですけど。」

佐川「茶の間で楽しめるようなものをという意気込みですよね。全部が全部、映 画館に見に来る訳ではないですから。家庭にいる人たちを引き付けるにはどうし たらいいかと・・・。」

中野明慶「まず 子供が見て、面白い、楽しい。だから、その主人公っていうのが あって。当時というのは、宇宙人というとオドロオドロしいイメージ、お化けの 延長みたいな。そういうのではなく、おかしくて悲しい宇宙人なんだよねー。」

穴倉「編集されている時よく呼ばれて。自分で納得いかないと、特技監督を呼ん で、何でこのカット撮ったの?とか。良いと、やっぱり褒めていましたよね。」

佐川「ちゃんと信念を持ってやらない限り、お客さんもついて来ない。見る人も 見ない。見てくれる方に対して失礼なことはしないようにというのが基本です。 これは、口すっぱくして。おやじさんの本当の信念というのはここしかないです 。」

中野明慶「考えてみましょうとか、善処しましょうとかいう言い方はしない。で きるよ、これ一言。横で聞いてて、ちょっと待ってよ・・・とか。後で、あんな こと言っていいんですか?って聞くと、いいじゃないの、後でゆっくり考えれば 、プロって その意気込みだ、と。」

◆監督 梶田 興冶 さん

ゴジラなどの特撮映画の助監督を務めた後、Wo Oの監督として円谷英二に誘われた。 「テレビは、無限の枠だと言っていました、円谷は。無限の枠があるのだから、 その中で作ったらいいよって、よく言ってました。」

◆脚本家 上原 正三 さん

円谷プロに創成期から参加。ウルトラシリーズ の脚本を多く手がける。 「彼独特の 時代の流れを読む触角というのが、ものすごく優れた人だった。テレ ビに特撮の時代が来る、ポジショニングが得られるという確信を持っていたよう な気がします。」

『 昭和38年、日本は高度経済成長の真っ只中にあった。(11月23日、世界 初の衛星中継が行われた) 急速に普及し始めたテレビ界では、通信衛星を使っ た衛星中継という画期的な技術が開発された。正に、テレビの可能性が広がり始 めた年だった。』

◆監督 満田 かずほ さん《お名前が漢字で表示出来ませんので、平仮名とさせ て頂きました。》

助監督としてWoOに参加。その後、ウルトラQ・ウルトラマン などの監督を務める。  「円谷英二監督と言えども、東宝という組織の中では なかなか自分の想う通りに 行かないので、 じゃあ 自分で会社を作れば、色々やりたいことが出来るのではないだろうかと思 って会社を作ったと聞いているんですけどね。」

『昭和38年4月、円谷は自宅のあった祖師谷に円谷特技プロダクション、後の 円谷プロダクションを設立した。テレビ界への進出を決意し、早速、特撮番組の 企画・立案に着手。最初に声をかけたのは、東宝の後輩、中野昭慶だった。』

◆特技監督 中野 昭慶 さん

円谷英二の助監督を務めた後、特技監督とし て映画「日本沈没」など多くの作品を手がける。 「おかしくて、悲しい宇宙人やりたいね、こう言った訳ですよ。それで、とにか く企画書作りを。大体のものを書いて、作品はこんなものだと。それを、金城く んと一緒にやってよ、と言われて。」 『その後 企画の立案は、円谷特技プロダクションの社員だった金城哲夫に託され た。』

◆脚本家 金城 哲夫 さん(故人)

WoOの企画で中心的な役割を果たす 。後に、ウルトラQ・ウルトラマンなどの初期の円谷作品の企画・脚本を手がけ る。

◆プロデューサー 熊谷 健 さん

金城哲夫と共に、WoOの企画・立案に 参加。その後、プロデューサーとして数々の円谷作品を手がける。 「当時 いろんな作家とのお付き合いがありましたけども、日本SF作家クラブの メンバーの方々とも築地で。当時の星新一さんとか三瀬龍さん、半村良さんとか 、一流の作家とのお付き合いがあったんです。それを金城と僕が聞いていて、あ る時にはメモしながら。そして、そのストーリー集を作ったんですね。」

『やがて、新番組の企画書が完成。引き続きスタッフが集められた。 ゴジラ映画の脚本家 村田武雄、東宝の特撮映画でチーフ助監督を務めていた 梶 田興冶、気鋭の若手脚本家 山浦弘靖などである。 彼らに、円谷から企画意図が伝えられた。』

◆脚本家 山浦 弘靖 さん

脚本家としてWoOに参加。後に、ウルトラQ ・ウルトラセブンなどの脚本を手がける。 「映画のSFとは違った意味での、テレビ的な世界でのSF。そういうものを作 ろうとなさっていたのではないですか。 かぐや姫の世界が、英二先生のSFの原点なのかなあと思ったりしますよね。壮 大な宇宙から来たという形ですから。」

梶田「円谷さん自身、非常に夢を持っておられましたから。やはりこのWoOな んかも、1つのファンタジックなものをと考えておられたのでは。 そういう意味では、宇宙空間の流れ者と地球人とのメッセージの交換という形の 、ファンタジックなものを考えておられたんじゃないかな。」 『こうして、第8話までの台本が完成した。番組タイトルも、WoOと決まった 。 W・O・O と書いて、ウーと読ませるこの奇抜なタイトルは、どのようにして誕 生したのだろうか。』

中野明慶「誰があのタイトルにしたのか知らないんだけど、確か 僕が考えたのは 、宇宙人来たるとかね。」

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◆光学撮影 中野 稔 さん

合成担当としてWoOに参加。以後、ほとんど の円谷作品の合成を手がける。 「洋服屋だと思うんだよね。WOOL(ウール)って書いてある看板が、こうい うふうに(縦に)かかっていた。台風の翌日ね、当時の看板はプラスチックじゃ なくてガラスだったから割れるんだよね。それで、WOOという字だけが残って いた。それがビジュアルですごく面白かったわけ。」

熊谷「もう、007のイメージみたいなものですね。007が逆に、WOOにな った感じですね。」

中野稔「で、それを金城に提案した。ウ〜?と言って抵抗してたんだけど、見て いくうちに自分の中でだんだん馴染みが出て来たんじゃないの。中野、それ決め ようよ!と。それで、横書きでWOO。」 こうして 友達となった秋田とWoOは、第2話以降、人間たちに降りかかる様々 な怪事件に、協力して立ち向かうこととなる。 WoOとは、地球人と異星人との交流の物語だったのである。

『製作現場では、キャスティングが進んでいた。しかし、秋田譲二 役として台本 に記載のある佐原健二によると・・・』

◆俳優 佐原 健二 さん

円谷プロ初のテレビ作品であるウルトラQで主役 を務める。 「初めから、知らないという言葉を出すのは嫌なんですけれども。僕は、WoO に関しては、全然聞いていなかったんですよね。」 『実は、主人公であるWoOをめぐって、スタッフの間にある混乱が生じ、製作 が難航していた。』

熊谷「やっぱり、WoOという存在がすごく分かりにくかったんですね。透明で 目玉だけが見える。それが企画としては、どこか難しい所があったのかな。形に なりにくかったのかなという気がします。」

梶田「絵にならないんですね、WoOが。大きくなるにはどうしたらいいか。大 きく変身する訳ですね。その頃まだ、変身なんていうのはなかったから。どうし たら大きくなるんだろうか?って。円谷さんも、まだそこまで具体的なイメージ 作りが出来ていなかった。無論、我々も想像つきませんでしたよ。」

『不定形で半透明、目玉だけが光っているというWoOのイメージは、あまりに も抽象的だった。当然、テレビ局の理解も得られなかった。そうした中、円谷は 、アメリカに ある機械を発注した。』

満田「円谷特技プロダクションという会社を興して。それで、WoOという番組 は今始まろうとしている訳だからね。WoOという番組のために、絶対このオプ チカル・プリンターは必要ということでしたね。」

中野稔「こなす能力は10倍。材料にNGが出ない。」

『この時 購入したオプチカル・プリンターは、当時 、世界に2台しかない映像 合成用の機械。 WoOを映像化するためには欠かせないものだった。 しかし、その値段は、出来たばかりの小さな製作会社に払えるような金額ではな かった。』

梶田「これは一応 30分ものなんですが、1話150万というのが当時の常識だ った訳です。ですから、テレビ局は大体そのくらいにしか考えていなかったんで すが・・・。円谷さんの話では少なくとも3.5倍、5〜600万かかるのでは ないだろうかという思案を作って、テレビ局と折衝したのですが。何せ、あまり にも金額の差が大きいので(テレビ局側が)どうしても納得しない訳なんですね 。」

満田「動くと、お金が出て行くって言うんだよね。動かないでほしいという事を 言われてね。梶田監督と本直しばかりやっていたという記憶があります。」

梶田「最終的には 6月か7月頃だったと思いますが・・・いや、もうこれで○○ テレビはお手上げだ。ダメだ・・・というようなことを言って、金城くんが引き 揚げて来たのは覚えています。」

そして、製作は中断。日本初の本格的特撮テレビドラマとなるはずだったWo Oは、それから40年以上の歳月を眠り続けることになる。だが、円谷英二のテ レビ界進出という夢が潰えることはなかった。別のテレビ局から、特撮番組の話 が持ちかけられたのである。』

『昭和41年1月2日、ウルトラQ放映開始。 資金的な重荷となっていたオプチカル・プリンターをテレビ局が引き取り、Wo Oのスタッフがそのまま移行することによって製作された。 日本のテレビ史上に残る傑作である。 ウルトラQが成功するなか、金城哲夫は次の企画を成立させるべく 精力的に動い ていた。 地球人と心を通わせる宇宙生物という WoOのテーマを何とか実現したいと考え ていた。

新しいヒーロー像が模索された。 ベムラー、続いてレッドマンと検討が重ねられ、誰の目にも分かりやすい具体的 なヒーロー像が次第に形になっていった。 そして、ついにウルトラマンが誕生する。』

上原「円谷英二監督が、よく企画室へ来て言っていた言葉。僕もまだ大事にして いる言葉というのは、子供に夢を与えたい、だから 子供の夢を壊すな 、と。」 『今はもう 円谷英二はいない。金城哲夫もいない。WoOの台本もほとんどが散 逸してしまった。しかし、この街並みには40年以上もの間、変わることなく「 ものづくり」の魂が息づいてきた。』

熊谷「まあ、円谷英二さんもお酒が好きだったし、金城さんも好きだったし、会 議室でお話するよりも、お酒がちょっと入ったほうが色々なアイデアが出てくる し。特に、特撮というのは、いろんな人間同士のイメージで作る素材ですから。 そういうことがすごく大事だなという気がします。この祖師谷で、この雰囲気の 中でお酒を飲みながら、ウルトラシリーズ、WoOという企画が出来たのかなと いう気が今もしています。」

このページの内容は、トクサツ・ナイツ 第3夜 『幻の企画 WoO 』 2006年1月6日 NH K BS‐hi にて放送されました内容を当サイトにて、独自の編集を行いお届けいたしております。

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