ウルトラマンメビウスのファンサイト・メビウスベルト【円谷英二物語】

トクサツ・ナイツ第1夜円谷英二物語』2006年1月4日NHK BS‐hi放送レポート

『日本の特殊撮影技術の開拓者であり、数々の特 撮作品の生みの親。円谷英二。彼のもとで育ったスタッフにとって手本であり、 憧れだった。』

『1901年(明治34年)、円谷英二は 現在の福島県須賀川市に生まれた。元 来、手先が器用だった円谷はこの地方では有名人だった。』

『鉄瓶やヤカンを使って小型の蒸気機関を作り、周囲を驚かせたこともあった。 機械仕掛けの模型飛行機を飛ばせて見せた時には、地元の新聞社が取材に訪れた 。当時(1910年)日本では、初の公式飛行が成功したばかり。飛行機という ものの存在を知る者すらほとんどいなかった時代だった。

1916年(大正5年)上京した円谷は、開校したばかりの日本飛行学校に入学 。しかし、この学校はわずか10ヵ月後に閉校してしまう。好奇心旺盛な円谷は 、黎明期にあった映画の世界へ飛び込んで行く。映画界で撮影技師としてのキャ リアをスタートさせた円谷は、ハリウッドの技術を参考に、グラスワーク(絵を 描いたガラス越しに対象物を撮影する簡単な合成手法)や、クレーン撮影といっ た撮影手法を次々と実践して行った。

1933年(昭和8年)、円谷の人生を左右する映画がハリウッドからやって来 た。【キングコング】 コマ撮りなどの技法がふんだんに取り入れられた、正に特撮が主役の映画だった 。円谷は、この道に生きることを決意したのである。』

『(キングコングの)フィルムを取り寄せた円谷は、どのような技術が使われて いるのか、それがどう演出に生かされているのかを1コマ1コマ徹底的に調べ上 げていった。

デビュー以来30本以上もの映画を共に撮ってきた映画監督の犬塚稔は、その良 き理解者だった。「長屋を深く撮りたい時、長屋の先を絵に描いてこれをスクリ ーンに映したものを撮影した。ミニチュアを作るのがうまい。箱庭のようなもの を作り、水を流して川を作ったりして撮影した。」

しかし、円谷の仕事ぶりが 常に周囲から評価されていた訳ではない。特撮の重要 性は、多くの映画人には理解されていなかった。』

『そんな円谷に大きな転機が訪れる。特撮を必要とする映画が製作されることに なった。ハワイ・マレー沖海戦(1942年)、真珠湾攻撃の様子を迫力満点の 特撮で描ききった。戦後、GHQが記録映像だと誤解した程だった。既に、円谷 の技術は世界のトップレベルに達していたのである。』

『一連の戦意高揚映画を手掛けた円谷は、戦後一時、職場を追われるなど不遇を 囲っていた。  〔1948年(昭和23年) 公職追放指定をうける 〕 しかし、その間も探究心と熱意が途切れることはなかった。 円谷特殊技術研究 所を設立。  〔1952年(昭和27年) 追放指定解除 〕 技術の研究は続けられた。そしてついに夢が実を結ぶ時が来た。特撮を主役に据 えた日本初の本格的怪獣映画ゴジラの製作が始まった。(1954年)』

『やがてゴジラは完成。細部に亘って作り込まれたミニチュアに、着ぐるみを使 った怪獣の演技を組み合わせた特撮シーンは、圧倒的なイメージで見る者に迫っ てきた。ゴジラは、国内はもとより海外でも大ヒットを記録した。世界の円谷の 誕生である。これ以降、円谷英二には特技監督の称号が与えられた。』

『円谷の挑戦は続く。1956年(昭和31年)には、空の大怪獣 ラドンを製作 。ピアノ線で吊られた怪獣を巧みに操る、操演という技術を大胆に取り入れ、空 飛ぶ怪獣の恐怖を描き出した。新しい映像表現の挑戦は留まる所を知らなかった 。』

『円谷は、合成という技法を用いることで新しい映像表現に挑戦する。 1964年(昭和39年) 宇宙怪獣 ドゴラ 巨大化した宇宙細胞が地球を襲うというこの映画では、着ぐるみの怪獣では表現 出来ない不可思議な動きをする宇宙怪獣による、大都会の破壊が描かれている。 』

『ゴジラに代表される着ぐるみ怪獣は、形や動きに制限が生じる。宇宙怪獣を描 くにあたっては、こうした制限を取り払う必要があった。先ず、怪獣が破壊する 対象をミニチュアセットに組み、そこに別の映像を合成しようと考えた。水槽の 中に怪獣を入れて撮影することで、不可思議な動きを再現したドゴラである。常 に新しい発想で取組んでいった円谷は、こうした映像表現の場を更に広げ、より 多くの人々に提供したいと考えるようになった。誕生したばかりのテレビの世界 に活躍の場を求めた。』

1963年(昭和38年) 円谷特技プロダクション設立 〔1968年に円谷 プロダクションに社名変更〕

『テレビへの参入を決意した円谷は、世界にたった2台しかないフィルムの合成 装置、オプチカル・プリンターの最新モデルを手に入れたいと考えた。この機械 があれば、合成の精度を高めることが出来るだけでなく、年間 何十本とい うテレビ作品を量産することが出来る。そして、円谷特技プロダクションとして 初めてのテレビ企画がスタートする。テーマとして考えられたのは、宇宙人だっ た。』

『こうして企画されたのがWoO。宇宙からやって来た生命体と地球人との交流 、そして彼らが遭遇する謎の怪事件を描く物語。主人公であるWoOは半透明で 、不定形の体を持ち目玉だけが光っている。このWoOのビジュアルイメージは 、ドゴラの映像表現を更に発展させたものと考えることが出来る。ドゴラの製作 と円谷特技プロ設立は、同時期に行われていた。』

『だがWoOは製作には至らず、企画は40年もの間 眠りにつくことになる。W oOに代わって円谷による初のテレビ作品となったのが、ウルトラQ(1964 年 撮影開始 ・ 1966年 放送開始)

ウルトラQでは、怪奇現象や個性的な怪獣・宇宙人が様々な特撮技術を用いて描 かれた。特に、オプチカル・プリンターを使用した合成カットには目を見張るも のがあった。円谷は、昼間は東宝の撮影所で映画の仕事、夜は円谷特技プロのテ レビスタッフが撮ったフィルムを厳しくチェックした。』

『ウルトラQの高視聴率を受けて、テレビシリーズ第2弾ウルトラマンがスタート。 その第1話、ウルトラマンは凶悪な宇宙怪獣ベムラーを追って地球にやって 来る。宇宙から来た人間の味方というWoO の設定が引き継がれて いる。スペシウム光線をはじめ、怪獣やメカが発射する多彩な光線。オプチカル ・プリンターによって合成されたこれらの光線は、作品にスピード感と未来的な イメージをもたらした。

円谷は、自ら特撮シーンの陣頭指揮を執ることもあった。それは、映像表現の可 能性に挑み続け、一切の妥協を許さないこだわりだった。』 《 ウルトラマン第19話「悪魔はふたたび」より円谷英二 自ら特撮班の陣頭指 揮を執った。》

そして、1968年(昭和43年)、幼い頃より抱き続けていたメカへのこだわ りを象徴する作品、マイティ ジャックが製作される。この作品では、当時 最新 のハイスピードカメ ラを導入。高速で撮影した映像を通常の速度で再生することにより、空飛ぶ巨大 戦艦に重量感とリアリティが与えられた。

円谷特技プロの設立から7年後の1970年1月25日、円谷英二は この世を去 った。しかし、その精神は確実に後輩に受け継がれていった。』

『円谷英二とその後継者によって生み出されてきた特撮作品は、今も多くの人々 に愛されている。その原動力となったのは、常に映像表現への果敢な挑戦を続け た一人の男の精神に他ならない。』

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