ウルトラマンメビウスのファンサイト・メビウスベルト【円谷ウルトラマンシリーズ40周年の奇跡・世界観】

円谷ウルトラマンシリーズ40周年の奇跡・世界観ウルトラQから帰ってきたウルトラマン

「空想特撮シリーズ」の第一作であり、円谷プロダクションが製作したテレビ作 品の記念すべき第一作、それが「ウルトラQ」である。
ウルトラQから帰ってきたウルトラマンまでの作品の世界観の考察です。

【ウルトラQ】

「ウルトラQ」は、当初は「アンバランス」というタイトルで製作されていた。 「もし、自然界のバランスが崩れたら?」が「アンバランス」の企画コンセプト であった。

自然の均衡が壊れた時に引き起こされる様々な怪事件を描くシリーズ として企画された「アンバランス」。それは、アメリカのテレビSFシリーズ「 アウターリミッツ」や「トワイライトゾーン」の日本版を意図していた。しかし 「アンバランス」は製作の早い段階で路線変更される。

テレビ局側から「せっか く円谷英二の名の下で製作するのだから、映画のような怪獣を登場させて欲しい 」との強い要望が出されたのだ。これにより「アンバランス」は怪獣路線に変更 。タイトルも「ウルトラQ」に変更された。

怪獣路線に変更されながらも「ウルトラQ」には「アンバランス」と共通の精神 が貫かれた。それは「驚異」や「不思議」を描こうという姿勢だ。 「ウルトラQ」の主役はまぎれもなく「怪獣」だ。物語の主軸は「どんな怪獣が 登場し、どう活躍するか」である。そして、この手法は、怪事件の不思議さを描 くことを意図した「アンバランス」から継承されたものである。ドラマを活かす ために怪獣(または怪事件)があるのではなく、怪獣を描くためにドラマがあるの だ!

この作劇法により「ウルトラQ」は、独特の視点を獲得した。それは一種の「客 観性」である。それまでのヒーロー物や少年向けの活劇は主人公を中心にストー リーが進行し、基本的に勧善懲悪的な作劇であった。しかし「ウルトラQ」のエ ピソードでは、善悪の概念が語られることはほとんどない。超常現象がクールに 描写され、人間側の主人公は小さな存在として描かれる。いや、主人公どころか 、時には人類そのものを見下ろすような視点から「ウルトラQ」のストーリーは 描かれていた。そんな作品世界の中で、怪現象に人間が立ち向かうのが妙味と言 えよう。

「アンバランス」の企画書にうたわれた「均衡の失われることの恐ろしさ、面白 さを描き、日常性への警告のドラマとしたい」との意志は、「ウルトラQ」にも 生き続けていたのだ。

一方、作品内で怪獣たちは自らの個性を主張した。魅力あふれる数々の怪獣たち 、ガラモン、ペギラ、カネゴン、ペギラ、ケムール人…。彼等を産み出したこと は「ウルトラQ」の最大の功績である。しかし、彼等の魅力を引き出したのは「 アンバランス」から生き続けた視点であり、その根底にある「未知への憧れと畏 れ」「夢見る心」「世界を少し違った角度から見る視点」であろう。そして、こ の精神こそが「ウルトラマン」へと繋がっていき、「空想特撮シリーズ」を支え ていくのである!

【ウルトラマン】

1966年7月、M78星雲・光の国の宇宙人が地球に降臨した!圧倒的な力で怪獣た ちをねじ伏せる「彼」を地球人はこう呼んだ…。「ウルトラマン」と!

1965年11月、円谷プロでは「ウルトラQ」に続く企画が検討されていた。それに 対しテレビ局からは「ウルトラQを踏襲しつつ、怪獣路線に、何らかの新案要素 を加えて欲しい」との意向が示されていたという。

そして「ウルトラマン」の企画が練られる過程で、円谷プロでなされた申し合わ せの中にも以下のような一文が見られる。「ウルトラQを整理し、怪獣シリーズ の決定版を作るという以外に余分の目的はないことを再確認したい」。

そう、「ウルトラマン」という番組は、基本的には「ウルトラQ」の世界にスー パーヒーローを加えたものである。 そして、その「スーパーヒーロー」のアイディアは、二つの企画にその源流を見 ることができる。

一つは、円谷プロが「ウルトラQ」と同時期に企画していた番組「WOO」。も う一つは、「ウルトラQ」の製作第2クール案として考えられていた「怪獣VSシ リーズ」である。

「WOO」とは、地球に飛来した不定形の宇宙生物"WOO"が地球人に協力し、 様々な怪事件に立ち向かうSFドラマとして製作される予定であった。映像化に 至らなかった企画「WOO」は「ウルトラQ」の後続企画として再検討された。 その結果、「WOO」は、新企画「科学特捜隊 ベムラー」へと改訂される。怪事 件の捜査チーム・科学特捜隊と彼等に味方する謎の宇宙生物ベムラーの活躍を描 く物語だ。さらに企画は練られ、怪獣ベムラーは人間型の宇宙生物「レッドマン 」に変更される。そして遂に、我々の知る「ウルトラマン」が創造されたのだ。

もう一つの「怪獣VSシリーズ」とは「ウルトラQ」が怪獣路線に移行していく過 程で検討されていた企画である。「怪獣同士が毎回戦いを繰り広げる」という内 容で、勝利した怪獣の再登場も予定されていたという。 正義の宇宙人と怪獣が毎回大格闘を見せる「ウルトラマン」のフォーマットは、 「ウルトラQ」で見送られたこのアイディアがリファインされたものと言えよう 。

こうして新番組「ウルトラマン」は、科学特捜隊と怪獣の攻防(ウルトラQから継 承された人類vs怪獣の要素)をストーリーの主軸とし、ウルトラマンvs怪獣という 最高の見せ場をクライマックスに配した怪獣シリーズの決定版と言うにふさわし い番組に仕上がったのだ!

さて「ウルトラマン」という作品は、「怪獣をいかに魅力的に描くか」を主眼に 作られている。このスタンスは「ウルトラQ」から継承されたものである。物語 の中心は「驚異」や「不思議」の象徴としての「怪獣」である。

そして、ウルトラQで経験を積んだ円谷プロのスタッフが、新たなシリーズに取 り掛かる時、おそらくは考えたのではないか。「今度のシリーズにはウルトラQ 以上に、強くカッコいい怪獣を登場させたい」と。怪獣たちを存分に暴れさせ、 魅力を十分に見せた上で物語を収束させる…。ウルトラマンは、そんな難題をク リアするための「幕引き役」であり、いわば、最強のレギュラー怪獣として設定 されたのではないだろうか。

初期のウルトラマンは、ヒーローというより、怪人的なイメージを持っている。 本来、彼はケムール人やバルタン星人と同列の存在であり、得体の知れない者な のだ。特に、最初期のAタイプと呼ばれるマスクにはそんな雰囲気が顕著である 。

そのような異質な存在である「彼」が、人類に味方し、共に戦うあたりが「ウル トラマン」という作品の味であり、精神であると思う。ハヤタの命を救い、時に は怪獣に慈悲深さを見せるウルトラマン。彼は単なる戦闘マシーンではなく、心 優しき戦士であった。そして、ウルトラマンをそのような存在として描いたのは 、スタッフの優しさがあってこそであろう。

そのような想いが込められた、強くて優しいヒーローだからこそ、今なおウルト ラマンは輝きを放ち続けているのである。

さて、怪獣シリーズの決定版を目指した「ウルトラマン」であったが、後半では 微妙に作風が変化する。個々の隊員の心情が描かれたり、戦う意義が問われたり するエピソードが徐々に産まれてきたのだ。 そして、この流れは次回作「ウルトラセブン」に引き継がれていく…。 

【ウルトラセブン】

1967年、「ウルトラマン」は、高視聴率を誇る超人気番組であった。しかし、妥 協を許さぬその製作姿勢は、放送ペースに製作が追い付かないという事態を招い てしまう。円谷プロは「ウルトラマン」を一旦終了させ、半年の猶予の間に次回 作の企画・製作を進めた。それが、空想特撮シリーズ第3弾「ウルトラセブン」 である!

「ウルトラセブン」という番組は、前作「ウルトラマン」に、侵略テーマを加え 、ドラマ性を強化したものだといえる。この構造は「ウルトラQ」を噌嚼・発展 させる形で「ウルトラマン」が製作されたのとよく似ている。

しかし「ウルトラ セブン」は最初から巨大ヒーローものとして企画されたわけではなかった。 「ウルトラセブン」の初期企画である「ウルトラ警備隊」は、宇宙を舞台とし、 宇宙開拓時代に人類が遭遇する怪事件と、それに立ち向かう宇宙パトロール隊の 活躍を描くシリーズであった。

続く企画「ウルトラアイ」は、舞台を地球に変更。ウルトラ警備隊の設定も、宇 宙人の侵略から地球を防衛するために組織された地球防衛軍のエリート部隊へと 改められた。そして、ヒーロー・レッドマンへの変身能力を持つ主人公・諸星弾 も設定された。企画の変遷の過程で前作「ウルトラマン」で成功を納めたフォー マットが求められ、採用されたのだ。この企画はさらに練り直され、「ウルトラ セブン」と改題された。

かくして「ウルトラセブン」の基本設定は成立した。舞台は1980年代の地球。そ こには、遊星間の侵略戦争から地球を防衛するために組織された地球防衛軍が存 在し、人類は宇宙からの侵略に対抗していた!

「ウルトラQ」「ウルトラマン」で継承されてきた、アンバランスゾーンと、そ こに出現する怪獣たちを描いてきた「空想特撮シリーズ」の世界観は、ここで一 旦リセットされた。善悪を越えた「驚異」の象徴としての怪獣が跋滬する世界か ら、「戦うべき敵」としての宇宙人が飛来する世界へと変化したのだ。

そして、この「地球防衛軍」の設定は「ウルトラセブン」というシリーズの中で 非常に大きな地位を占めることとなった。

「ウルトラセブン」というシリーズは、ウルトラ警備隊とモロボシ・ダンが紡ぎ 出すドラマを描くことを主眼に構成されている。 これは「ウルトラQ」「ウルトラマン」と比較すると、非常に大きな変化である 。「ウルトラQ」「ウルトラマン」では、作劇の主眼は怪獣や宇宙人の魅力を描 くことであり、ストーリーも彼等を主軸として構築されていた。

しかし「ウルトラセブン」においては、ウルトラ警備隊とモロボシ・ダンを描く ことに主眼が置かれている。そして、宇宙人はドラマの発端を産み出すための存 在であり、敢えて言えば「脇」の存在となった感がある。

「ウルトラQ」「ウルトラマン」では、人間側のキャラクター描写は意外に希薄 である。それは「Q」「マン」の作品世界においては、万城目淳や科学特捜隊の 役割は、怪獣を主役とするストーリーの進行役として位置付けられていたためと 言えるだろう。

しかし「ウルトラマン」もシリーズの後半になると、個々の隊員の心情が描かれ たり、戦う意味が問われたりするエピソードが見られるようになる。この作風の 変化は「ウルトラセブン」に持ち越され、そして完成したと言える。

そして、この変化は、ヒーロー・ウルトラセブンの描写にも影響を与えている。 「ウルトラマン」では、人物キャラクターの描写が希薄だったのと同様、ウルト ラマンとハヤタについても突っ込んだ描写はほとんどなされない。それは、ウル トラマンの役割が物語を収束させる「幕引き役」であったからであり、それ故に 超越者である必要があったからだ。そして、説明がほとんどなされないからこそ ウルトラマンは超然としたイメージや神秘性を持ち得たのである。

一方、「ウルトラセブン」では、第三者であるモロボシ・ダンの視点を通し、人 間を描くという手法がしばしば用いられた。だからこそ、ヒーロー・ウルトラセ ブンもその神秘性以上に内面を描くことが選択されることとなった。ダンは、地 球人と宇宙人の狭間で悩める存在として描かれたのだ。

非常に大まかで乱暴な言い方をしてしまえば、怪獣を主体とした「Q」「マン」 の作劇が、「セブン」では、人間のドラマを描くための作劇にシフトした。そう 言ってしまってよいだろう。

「ウルトラセブン」に登場する宇宙人や怪獣の描写が淡白なのは、このような理 由によるものなのだ。基本的に、ウルトラセブンに登場する宇宙人たちのメンタ リティは、我々人間のそれに極めて近い。彼等には、バルタン星人やケムール人 の持つ「異質さ」が希薄なのである。宇宙人の描写に限って言えば「ウルトラセ ブン」のSF性は「Q」や「マン」より後退しているとすら言える。

しかし、その一方で「ウルトラセブン」は、深いテーマ性を持つ数々のエピソー ドを産み出した。これは「セブン」がドラマ性を指向したが故の成果であろう。 人間社会や文明を見つめ直し、我々の常識を揺さぶるような問いかけが込められ たエピソード。その結末は、失望や喪失感に溢れたものであることも少なくなか った。

そして、そのような戦いの中で地球人の醜い面を知ったはずのダンは、それでも 地球人の側に立ち、地球を守り続けた。その姿には、スタッフの願望が投影され ていたはずである。

人間の弱さ、醜さを認めた上で、なおかつ人間に対する希望を失わないこと。困 難な状況の中でこそ、目標に向かって努力すること。そして、立場の違いを越え 、他者を理解しようと努めること…。

ダンに託されていたであろう、そのような思いこそが「ウルトラセブン」という シリーズのテーマなのだと思う。スタッフは、異星人ダンと人間の繋がりを通じ 、そのような「理想」を描きたかったのだ。そして、その「理想」を強調するた めに、スタッフは人間の負の側面を描くエピソードや正義の意味を問うエピソー ドを製作し、「理想」を実現することの困難さを描いたのだ。そこに「ウルトラ セブン」というシリーズの凄さと深さがある。

そして、そのような人間にとって不変の課題を描いていたからこそ、「ウルトラ セブン」は今日でも全く古びることがないのだと思う。

「ウルトラセブン」で、人間を描くことを求めた円谷スタッフの欲求は、犯罪を テーマとした次回作「怪奇大作戦」へと繋がっていった。そして、人間の奥底に 潜む「闇」を描いたこのシリーズは驚くべき高みに到達するのである。

【帰ってきたウルトラマン】

1971年、「ウルトラセブン」から約3年のブランクを経て、ウルトラマンが帰っ てきた!

1968年9月、「ウルトラセブン」の終了により「空想特撮シリーズ」は、その幕 を降ろす。

1969年、ウルトラシリーズ最大の功労者の一人である脚本家・金城哲夫が円谷プ ロを退社。そして1970年1月25日、「特撮の神様」円谷英二が永眠する。

この時期、円谷プロは経営的に非常に苦しい状況にあったと言われている。そん な中、1969年の暮れに「続・ウルトラマン」と題された企画が立ち上げられた。 そして、その企画は改訂を重ね「帰ってきたウルトラマン」として製作されるこ ととなった!

「帰ってきたウルトラマン」の舞台となったのは1971年の日本だ。 「ウルトラマン」「ウルトラセブン」の時代設定は1980〜90年代とされていた。

そして、海外輸出を前提に製作されていた「マン」や「セブン」では、日本的な 日常性や生活感を連想させるものは、意識的に画面から排除されていた。 そんな前作から一転、「帰ってきたウルトラマン」では、製作年と同じ時代が舞 台として選択された。そして画面には、民家や町工場がしばしば登場する。

そこには、劇中の世界を視聴者の住む世界と地続きのものとして描こうという意 図が感じられる。

「帰ってきたウルトラマン」という作品には不思議なリアルさが漂っている。そ のリアルさは、サイエンス・フィクションとしてのリアルさではなく、もっと日 常感覚的なリアルさであった。

「MAT内での隊員同士の対立」「MAT内で批判され、孤立する郷」「被害を受ける 市井の人々」「作戦失敗の責任を問われ、上層部から解散をちらつかせられるMAT 」等々の描写に見られるやりきれなさや辛さ…。そう、そのリアルさは、主に人 間の描写の生々しさから生まれている。そして、そのドラマの中心に据えられた 者、それが主人公・郷秀樹であった。

「帰ってきたウルトラマン」というシリーズの最大の特徴は、主人公・郷秀樹の 人間的な成長を描いたことだ。

郷秀樹は、一個人としても、MATの隊員としても未熟な人間として描かれている。 ウルトラマンの力を得て慢心したり、自分の主張が通らないことに憤慨する郷。 彼は、ハヤタやダンとは全く異なるキャラクターであった。

「帰ってきたウルトラマン」の作劇は、そんな郷の挫折や成長を描くことを主眼 に構築されている。MATは、いわば郷にとっての修練の場として描かれ、対立から ドラマを引き出すための舞台として位置付けられていた。いや、MATに限らない。 「帰ってきたウルトラマン」の世界を構成する諸要素は、人間ドラマ、特に郷の ドラマを効果的に描き、説得力を持たせるための舞台装置であった。だからこそ 、それらには「現実感」が求められたのである。

そして、このような作風の変化はウルトラマンの描写にも影響した! 「帰ってきたウルトラマン」のウルトラマンは、無敵の超人ではなかった!彼は 、常に必死の戦いを強いられていた。怪獣に叩きのめされ、地に伏し、土にまみ れる彼の姿。それを、我々は幾度目にしたことか…。

しかし、ウルトラマンは最終的に勝利する。そうすると、ウルトラマンの苦戦は 爽快感を増幅するための演出なのか?それもあるだろうが、この作品におけるウ ルトラマンの苦戦は、人間ドラマで高められたテンション、特に郷の情念を特撮 パートにまで持ち越すための手法なのだ。

「郷秀樹がウルトラマンに変身した途端に全てが解決される」。それは、この作 品世界内ではあってはならないことなのだ。「ウルトラマンになること」が絶対 的な切札とならないからこそ、郷秀樹は努力する。そんな郷の姿と、強敵に打ち のめされても立ち上がるウルトラマンの姿が重なるからこそ、ウルトラマンと郷 の一体感は高まるのだ。

シリーズも中盤に入る頃には、MATの人間関係はかなり安定したものとなる。その 中で郷も一人前の隊員となり、MAT内で自分の居場所を確保していた。そんな時に 起きたのがあの事件…。ナックル星人による「クリスマスの悲劇」であった。「 帰ってきたウルトラマン」のスタッフは、ここに至ってさえ、郷に試練を与えた のだ…。

そしてこの回、ウルトラマンと郷の一体感が最も強調されたセリフが登場する。 失意と怒りの中で、郷はウルトラマンに変身した!そしてナックル星人に対峙し たウルトラマンはこう言うのだ。「復讐してやる!」

ここに至っては、郷とウルトラマンの人格はほとんど一致している。否、こうな ると、郷の情念がウルトラマンの形をとっているとしか言えない描写ではないか 。そして、このような不完全さこそが新ウルトラマンの特徴であり、魅力なのだ !

「ウルトラセブン」は、地球人と異星人・ダンの友情という理想を描く一方で、 ダンの視点から人間のエゴや弱さを描いたシリーズだった。だから、ダンは異星 人の仮の姿として設定された。

一方の「帰ってきたウルトラマン」は、現実の中で翻弄され、成長する郷秀樹を 描くシリーズだった。よって、郷秀樹は人間そのものである必要があったのだ。 そして、郷が人間として描かれる必要性がもう一つ。それは、郷が視聴者である 子供たちの代表としての登場人物・坂田次郎の目標として位置付けられていたた めである。

最終回、バット星人の侵略から光の国を守る戦いに向かうため、郷は地球を去る 。そのラストシーン、郷が別れを告げるのは坂田次郎とルミ子に対してである。 「マン」や「セブン」ではM78星雲の超人は、戦友である隊員達に見送られ地球 を去った。しかし、郷秀樹を見送る役割は次郎に与えられた。それは、次郎もま た郷の戦友だったからだ!そう、郷の「人間的な成長」という戦いは次郎ととも に成されたものだった。

だからこそ、成長を果たし旅立つ郷は、成長途上の次郎に言ったのだ。「嫌なも の、許せないものと戦える強い男になれ」と。その言葉は、我々視聴者に向けて 送られたものでもあった。

「君にも見えるウルトラの星」、主題歌のこの歌詞には「帰ってきたウルトラマ ン」の精神が込められているように思えてならない。

スタッフは、郷秀樹の姿を通じ「くじけるな!」というメッセージを送り続けて いた。「人として努力すること」それが「帰ってきたウルトラマン」のテーマで あった。そう、我々もウルトラの星を見ることができる。勇気を持って困難に立 ち向かう時、一人ひとりにウルトラの星は輝くのだ。

文:T2-0/企画・プロデュース:レイゴ

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