ウルトラマンメビウスのファンサイト・メビウスベルト【ウルトラマンメビウス総括マニア考察3】

ウルトラマンメビウス総括マニア考察

1.はじめに

M78星雲・光の国の宇宙人が地球に降臨して早や40年…、その記念すべき年に「ウルトラマン誕生40周年記念作品」の副題を掲げ、製作された作品が「ウルトラマンメビウス」です!それは「40周年記念作品」の名にふさわしい充実ぶりと、素晴らしい盛り上がりを見せてくれるシリーズに仕上がりました!

告白してしまうと、僕が当初「メビウス」という作品に抱いた期待はさほど高いものではありませんでした。 古くからの特撮ファンは、新しい特撮番組に接する際に、少々独特な構え方をすることがあります。 新作の報に触れた時、「期待」と「不安」が混在した不思議な気分になってしまう…。 そして少ない情報の中からあれこれ不安要素を列挙してしまう…。そんなオールドファンは決して少なくないのです。

それはウルトラシリーズであっても例外ではありません。思えば僕が「ティガ」の第一報に接した際の印象は 「主演がジャニーズなの?視聴者層を拡げたいっていう意図は分かるけど、不安だよなぁ」というものでした。

「メビウス」の第一報でも「ウルトラ兄弟復活!」の情報に心躍らせながらも「遂にウルトラ兄弟が復活 !?切り札を使っちゃう感じだけど、巧く活かせるのかなぁ?」って感じでした。 しかし、それらの不安は、いい意味で裏切られました。「 ティガ」は、敢えてM78星雲のウルトラマンから独立した世界観を採り、 「新しいウルトラマン像」を確立せんとする気概に溢れたシリーズでした。 そしてその中で、長野博氏演ずるダイゴは、素晴らしい存在感を示してくれました。 そんな「ティガ」に、僕は夢中になったものです。そして「メビウス」も、期待が揺るぎないものとなるのには、 さほど永い時間は要しませんでした。

2.復活のウルトラ兄弟

「ウルトラマンメビウス」という作品における最大のトピックは、やはりウルトラ兄弟の復活でしょう。永く封印されてきた「ウルトラ兄弟」の設定…、それは子ども時代に彼らの活躍を目撃した者たちにとって特別のものがあります。しかし、それは切り札ではあるけれど、使い方が難しいカードでした。

その理由の一つは、過去のウルトラ兄弟の扱いが決して芳しいものではなかったことでしょう。 第二期ウルトラシリーズで、ウルトラ兄弟はしばしば、現役ウルトラマンを強く見せるための演出のため、 悪く言えば引き立て役として用いられました。

そして「ウルトラ兄弟の危機」を盛り上げの要素とする展開や、度重なる「最強の敵」の登場の中で、 第二期ウルトラシリーズは、パワーのインフレーション状態に一時期陥ってしまったといえます。 そうでなくとも、一つのエピソードに複数のキャラクターが登場するとき、両者ともに見せ場を作り、 お話をまとめることは案外難しいことです。「ウルトラ兄弟」の設定は魅力的な要素である一方で、 下手な使い方をしたらファンからの反発は必至の、諸刃の剣でした。

しかし、過去の作品の反省に立った「メビウス」は、メビウスが成長途上であることを強調し、 その「弱さ」を前面に押し出していました。そして、ウルトラ兄弟の客演時は、 メビウスと客演ウルトラマンの両方に見せ場を作るような配慮が見られました。 これらは、お話を盛り上げると共に、過去の作品のファンも納得できる展開を見せてくれました。

もう一つ僕が心配したことは、昭和のウルトラ各作品と新作とを同一の世界観とすることへの危惧でした。 つまり「メビウスの作品世界と昭和のウルトラ世界を同一の世界観とすることは、 各作品が持つ設定との矛盾・不整合を少なからず生むのではないか」と思ったのです。 そして、それをクリアするためには大変な考証を要するはずでした。しかし、これも杞憂に終りました。

過去の作品と、新作のリンクという試みは第二期ウルトラシリーズでも行われました。実は、 第二期ウルトラの世界観は非常にあやふやなものです。その世界観は「ウルトラ兄弟や、視聴者の知っている 怪獣たちが時々再登場する」けど、「過去作品との繋がりは敢えてぼかされている」といった印象のものでした。

ウルトラシリーズの各作品をリンクさせるためには、いくつかの設定がハードルとなります。 それは、各作品の舞台として設定されている年代が前後することや、 各防衛チームの持つ兵器の技術力が継承されているとは思えないこと、等です。 細かく探せば他にもたくさん見つかるでしょう。

しかし、メビウスはそのハードルをやすやすとクリアしてみせました。それは、 第二期ウルトラが作品をリンクさせる際にとった手法をさらに推し進めたものでした。あえていに言えば、 世界観を繋げる上で都合の悪い設定には「見てみぬ振り」を決め込み、使える設定、 盛り上がる設定のみを使うという「美味しいトコ取り」をやらかしたわけです。 なのに、それが気にならない作りなのは流石だと思います。 それはひとえに「メビウス」という作品の面白さによるものでしょう。 「メビウス」は、そんな些細なことなど問題にさせないパワーと面白さに溢れていました。

ウルトラシリーズは昔から、一作ごとに新たな試みに挑みつづけてきました。 「地球人に味方する宇宙人」という「ウルトラマン」のコンセプトそのものが、 前作「ウルトラQ」からすれば大胆な変革ですし、SFテイストの強まった「ウルトラセブン」や、 人間ドラマが強化され隊員間の対立も多かった「帰ってきたウルトラマン」をはじめ、 それぞれの「ウルトラ」は、毎回、前作から作風が変化しています。

平成に復活を遂げた「ティガ」は、「M78星雲のウルトラマンから離れ、新たなウルトラマン像を確立する」 ことに成功しました。そして「怪獣保護」をテーマとして掲げたコスモス。 「シリアスかつハードなウルトラを創出する」ことに挑んだネクサス等、これらは、 いずれも新境地への挑戦であり冒険でした。ウルトラの歴史は、そのままクリエイターの挑戦の歴史でもあります。

そして、メビウスにおいては「ウルトラ兄弟の復活」自体が挑むべき命題の一つだったのでしょう。 そしてそれは十二分に果たされたと言えます。 「メビウス」は、ウルトラ兄弟の設定を非常に巧く使ってくれました。 ホントに「最高の見せ方をしやがった!!」(←リュウの声で読んでね)って感じです(^-^)/。

新たなウルトラマン像を確立し、「ウルトラ」というブランドを復活させるため、 あえて過去の「ウルトラ」と異なる世界観を選択した「平成ウルトラ」。 メビウスには、その平成ウルトラの精神が息づいています。

ハードな味わいを持ちつつ、子どもたちにも配慮した「ティガ」と、それに続く平成ウルトラ。 それらを世に送る一方で、円谷プロは「ウルトラマンランド」を始めとする直営施設を開設し、 ウルトラマンが共闘するショーを送り続けてきました。

今回の映画やテレビ版メビウスの成功は、円谷プロが果たしてきたそのような積み重ねや、 スタッフのウルトラに対する愛情に支えられたものであると思うのです。 ティガで、ウルトラシリーズを復活させた円谷一夫会長(ティガ製作当事は社長)は、 雑誌のインタビュー等で「一番好きなシリーズは『帰ってきたウルトラマン』」と語られています。 第二期ウルトラには独特の捨てがたい味わいがあります。 「一夫会長は『第二期ウルトラの復権をいつか果たしたい』と思っておられたのではないだろうか」。 ウルトラ兄弟の復活を成功させた「メビウス」を見ながら、僕はそんなことを推察しました。

3.防衛チームの役割

メビウスの作劇上の特徴は、ティガ以降の平成ウルトラシリーズが挑み続けてきた 「ウルトラマンを血の通った存在として描く」という視点を継承していることでしょう。 そして、「メビウス」の作劇の軸となる存在はウルトラマンや怪獣ではなく、 人間たちです!この視点は「帰ってきたウルトラマン」以降の第二期ウルトラ、 そして「ティガ」以降の平成ウルトラと共通するものです。

メビウスの劇中では、主人公ヒビノ・ミライを取り巻く様々な「絆」が描写されました。 そした、そして、ここにこそ、第二期シリーズと平成ウルトラシリーズの作劇や人間に対するスタンスの違いを見ることができます。それは、同じ「ドラマ重視」の作劇でありながら真逆とも言えるものをもっています。 第二期ウルトラをとても大切にしている「メビウス」ですが、 実はその第二期ウルトラでは「タロウ」を除いて、 各作品の防衛チームは主人公にとって決して居心地の良い場所ではありませんでした。

第二期ウルトラでは、個人が追い詰められ、孤立する展開がしばしば見られます。 それは主人公(ウルトラマンの人間体)ですら例外ではありません。むしろ主人公こそが、 そのような孤独を味わうことが多かったと言えます。 「異変に気付いた主人公が隊員たちにそれを訴えるが、誰からも信じてもらえない」 これは第二期ウルトラの定番とも言える展開です。

第二期ウルトラシリーズの防衛チームは、作劇上「主人公の人間的成長を描くための舞台」 としての役割を与えられていたと言えます。そして、防衛チームは怪獣や宇宙からの脅威に対し、 無力な存在として描かれることが多かったのです。 特に第二期ウルトラにおいては、ウルトラ兄弟がそうであったように、 防衛チームも現役ウルトラマンの強さを引き立たせるための存在とされることが多かったのです。

ティガ以降の平成ウルトラはその点を見直し、防衛チームを「ウルトラマンを支え、ともに歩むもの」 と位置づけました。メビウスのGUYSはこれと同じ流れの中にあります。

この視点があったからこそ、「ミライの正体を知ってなお、仲間として共に戦う」 という展開が可能となったのでしょうし、皇帝との最終決戦があれだけ感動的なものとなったのだと思います。 「秘密と孤独を抱え、正体を知られたときにはM78星雲に帰らなければならない…」 そのような宿命を持っていた昭和のウルトラマンとメビウスを比較する時、 それぞれのそのシリーズの「人間」に対するスタンスの違いは明らかです。 このことについては、次項で語ってみたいと思います。

4.人間の肯定

ウルトラに限らず、昭和の特撮作品、アニメ作品では「地球人は宇宙の癌細胞ではないのか?」 といった内容の作品がしばしば見られました。 また、70年代の特撮作品では人間の暗部をえぐるようなストーリーは珍しくなく、 そのようなテーマを扱う際は辛辣な描写もしばしば見られ、いたたまれない気分になることも少なくありませんでした。

しかし「メビウス」では、このような展開は意識して排除されていたように感じられます。 ティガ以降のウルトラは、基本的に人間の持つ善の部分を信じる作りとなっています。 この点でも「メビウス」は、世界観の繋がりを持つ昭和のウルトラより、 ティガ以降の平成ウルトラに近い作風を持っています。

画面から読み取れる「メビウス」の作劇上のポリシーは、 「人間を否定しない」ということでした。そして実際に、 メビウスの劇中において人間を否定するような描写は決して見られませんでした。 「メビウス」というシリーズでは、一人ひとりの「個人」から、種としての「人類」まで、 「人間」を肯定する姿勢が貫かれていました。

「怪獣使いの遺産」は、このシリーズのポリシーの中で「怪獣使いと少年」にどれだけの回答を示すことができるかと言う、 スタッフの挑戦だったように感じています。

5.まとめ(スタッフの思い、我々の思い)

メビウスという作品は、過去のウルトラシリーズを緻密に分析し、 「ファンに受け入れられたのはどの部分だったのか?逆に、何処が拒否されたのか?」 ということや「演出上の失敗があったとしたらどのような点か?その失敗はなぜ生じたのか?」 といった点を、かなり考えて製作されていると思います。

いわばマーケティング的な分析がしっかりなされ、その上でファンの求めるもの、見たいものを提供することを念頭に置いて作られたように思うのです。 それなのに、あざとさを感じさせないのは何故なのだろう?それはやはり、メビウスという作品に、 スタッフの「ウルトラ」に対する愛情が脈々と流れているから)ではないでしょうか。

昭和のウルトラと平成ウルトラの幸せな融合を見ることができた「ウルトラマンメビウス」。 その映像からは、「子どもたちがいつまでも愛してくれるようなウルトラマンを創ろう」という気概が伝わってきます。 一方で、過去のウルトラにおいて途中で破棄された設定までも丁寧にすくい上げ、決着を付ける展開まで見ることができました。それは、スタッフが我々かつての子ども達の思いに応えてくれたものだったと思っています。

ウルトラマンを愛する作り手が、子どもや、かつて子どもだった我々に沢山のメッセージを込めて製作してくれた「ウルトラマンメビウス」。そのドラマに、そして真摯な製作姿勢に、僕は幾度涙したことでしょう。 こんな心のこもった作品を見ることができて、皆で盛り上がり、語り合うことが出来た…。そのことに感謝しています。

本当にありがとうございました。「ウルトラマン誕生50周年」に向けて、円谷プロダクションとウルトラマンのより一層の飛躍を祈念したいと思います。 「未来へ飛び立て、ウルトラの光を信じて」 《T2-O》

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