ウルトラマンメビウス総括レイゴ考察
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人々の夢を形にするそれが「ウルトラマン」
「夢を形にする。」それが創作物だと私は思っている。
特撮ウルトラマンシリーズの醍醐味は、怪獣が登場することであるとも言える。
これは「帰ってきたウルトラマン」の当時の企画書が、ウルトラマンシリーズと名乗らず、怪獣シリーズであったり、 「ウルトラマン」が当初どれだけ、こどもたちに人気の怪獣を効率よくブラウン管に登場させられるかという 視点から考えられたヒーローであったことなど、 (ウルトラマンの最初のプロットでは「ウルトラマン」は、正義の怪獣「ペムラー」であった。)などから考察しても、 「怪獣は何故出現するのか?」 という問いかけが、ウルトラの精神の源であったのであろうと思うからである。
怪獣というと、だいたいビル15階分ほどの巨大な生物を、 視聴者に想像させるというだけでも、あらゆるアイデアを駆使して、本編を制作することになる。
ウルトラマンメビウス本編のカメラマン、倉持武弘さんは、「人物と入れ込んだショットに気を配っているつもりですが、 なかなか巨大感、恐怖感を出すのは難しいですね。」とおっしゃっていた。
特撮は、実際そこには存在しないものを形にしていくとう空想の産物の世界であるわけだが、 シリーズ40年の時を刻み、 CGの発達により、 ウルトラマンは、ライヴ映像とCGのマッチングという新たな映像の展開を見せた。
技術的にはほとんど違和感はないが、作業時間の制約などで クォリティーを完璧に出来ないきらいはあるにせよ、その最大のメリットは、 どんな画でも表現出来るということになる。
反面、見せすぎてしまうという問題を抱える、これはシナリオの世界でも言われていることではあるが、 役者は表情一つで、 どんな感情でも表現できるため、説明台詞を多用することは、例えば役者が「怒っています。」と発言した場合と、 唇を噛み締めて、目を瞑るだけで、その心のうちを推察するという 方が「怒っています。」という言葉1つよりも、その胸の内を想像し、慮れるというものだ。
要は CGの使い方というものが、作品の より完成度を変えていく、技術的に不可能な時代にどう見せるかとアイデアをひねる時代から、 どう技術を使って魅せていくか、効果的にストーリーや芝居を捉えていくかという イメージの具体化が肝となり、プロデュース能力が、より要求される時代になってきたとも言える。
今回レポを書いていて痛感したことはシナリオが、設計図だという点だ。 未放送地区を出したウルトラマンメビウスを多くの人にどう伝えていくかと考えた時、 なるべく可能であれば、本編を再現できないものかと考えた。
ところが、台詞を書き出しただけでは、どうしてもあの感動がそこから得ることができない。 何が違うのだテレビと・・・そうか、描写だ。 自分の目で見たものを出来るだけ表現してみよう。 そこから今回のメビウスベルトのレポが生まれた。
面白いことにテレビ番組として、カンパケになっているものを見た直後と、 台詞を引き出したあととの感想が自分の中で変化することだ。
設計図であるシナリオに、柱が立ち壁ができて家が建っている。これがそう思える理由であり、 台詞を引き抜く作業は、家の解体作業と同じであった。
一度解体し、再度、描写で肉付けをしていく。その中でこの回は特撮部分が飛びぬけて素晴らしいと感じる時や、 総合的に演出が秀逸と感じる回、また、心に沁みるハートフルな話に感動した。
効果音の再現は無論不可能だったため、今回ウルトラマンメビウスで「音」を担当された、 松本能紀さんにウルトラマンメビウスの 本編について取材をしてみた。
ウルトラや東宝怪獣ではこの東宝ライブラリー効果音は欠かせない音だと言うだからだ、 それは理屈でなくて子供の頃から耳にインプットされてきた情報としてなじんでいるからであろう。
まず、ウルトラマンメビウスでは「東宝効果集団」の効果音ライブラリーを第4クールで使用したこと。 ライブラリーは15〜6年前円谷プロの倉庫の片隅で発見されたオープンテープ。
そのライブラリー音をふんだんに使ってみたことが今回のメビウスの特徴であったという。 シリーズの結果として、最近の音と上手くなじませたこと。 新旧の効果音を融合させたことである。
また、歴代のウルトラが出演したということからウルトラの声を再構築できた。 多少作り替えたキャラはあるが、技術面では、ミキシング時にテレビを第1にしてダイナミックレンジを 中ぐらいにしたということ。
「今まではビデオやDVDを考慮してそこそこレンジを大きく取っていたものを狭めてみました。 レンジを広く取るとどうしても放送時の音量が小さく感じられてしまうため、実験的に狭めてみたのです。 」 結果、悪くなかった。むしろもう一息試したかったくらいだという。
このように「音」「映像」どれを一つ取ってもこだわりと それぞれに大変個性があることが分かる。
これがいわゆるそこに存在するすべての人の想いやセンス、フッションが 詰まって形どられていくというのが、作品だということだろう。 当サイトがスタッフクレジットを掲載するのも、こうして作品に関わった方たちへの敬意からである。
最終的にはこのバランスこそが大事であり、多くは脚本の良し悪しに目がいくことが多いが、 実は、設計図と立ち上がった家を見比べると必ずしもそうとは言い切れない。と思える。
私個人は50話のレポを通して、ウルトラマンメビウスはとても温度差のある作品だったと感じていた。 恐らくそれは、キャラクターとしての「ウルトラマン」の 可能性を追求する視点とウルトラマンへの敬愛から出る視点の差ではないかと思われた。
番組を見るときは、なるべくまっさらな気持ちで、襟を正して全力で受け取る努力をしていたが、 飛んできた球が好みのものでない時や、取りにくい球の時は、真ん中で取らず、 横でキャッチをしてみせたりしていた。これもコミュケーションの1つの形である。 球は取るだけではなく、相手に投げ返さなければ続かないからだ。
こうして、間接的に自分の意見なり感想なりを披露できる環境と機会を得たことは、至福であったと言える。
「僕らのウルトラマン」と「ウルトラマン」
商業的キャラクター商品である「ウルトラマン」と「僕らのウルトラマン」 今回のウルトラマンメビウスにファンが望んだことは、 必ずしも現場サイドから見ると歓迎されることばかりではなかったかもしれない。
ウルトラマンという作品が、それだけ長い時間をまたぐ世代の人々の心の中に生き続け 、ウルトラマンを見て育ったものが多く、また 社会に多く存在するため声高々に届いてしまうということであるかと思われる。
実際に視聴者が、本当にこどもばかりであったなら、ご覧のように表面化した発言ができないわけであるから、 当然こどもと同時に視聴する親なり、ずっとウルトラマンを愛し続けた人々の声が、こどもたちの声を増幅して伝えたり、 代返するという形にならざる得ないだろう。
これらは、より制作者と一体感を感じられる作品を創ることも可能だが、個々の要望が表面化していくと芸術点としての 完成度が下がるという可能性もあるかもしれない。
仮に、ここで出演者が死ぬほうが作品としてのインパクトが上がるとしても、 ウルトラマンとしてはできない。といった多くの制約を抱えているのではないかというある種の 想像もできる。
ウルトラマンとは、こどもたちに夢を継ぐ作品であるからだ。 それが出演者などへの細かいキャラクター設定への周囲からの 期待となったり、 日常の言葉遣いや言動への設定が配慮されることにもつながる。 この例は最近では、「トムとジェリー」の喫煙シーンが削除されたことなどでも知られている。
ウルトラマンメビウスと人間との友情
ウルトラマンメビウスの最大の特徴は、ウルトラマンシリーズが元は、怪獣が登場することに 着眼点の趣が、おかれていたものが、 「ウルトラマン」そのものにポイントが置かれたことだろう。
ウルトラマンメビウスは、「ウルトラマン」のための「ウルトラマン」の番組であったとも言える。 ウルトラマンが自らを語り、その心情を吐露したのだ。
そして、これだけファンを泣かせたウルトラマンもあまりないだろう。 わくわくしたり、どきどきしたり、というより、多くは泣いていた視聴者が多かったのではないだろうか、 また、ウルトラマンメビウス自身も実に よく泣いた。
ウルトラマンを見て泣くというと、とても不思議に感じるが、実際に泣いてしまうものは仕方がない。 それがこのメビウスという作品を象徴づけていた。 「大人を泣かせるウルトラマン」だったわけである。
それはセンスオブザワンダー、円谷英二が培ってきた土壌にやっとウルトラの芽が出たということであろう、 懐かしさと、自分が40年前の世界にひとっ飛びし、 そして現在の自分の置かれている自身と重ねて、歩んできたその歴史に想いを馳せる。
その歩んできた時間が例え、どんなものだったとしても、今ここにオンタイムで放送されるウルトラマンに当時の自分の ウルトラマンが登場し、活躍してくれる。 生涯現役のウルトラの勇士。彼らの姿にどれだけ感動し、そして懐かしい怪獣たちに恐怖より、むしろ慕情から、 微笑みかけたであろう。
また、何故大人が派手に泣くウルトラマンになったのか、 ウルトラマンメビウスは、ウルトラマンでは表現がし辛いと思われていた 「純愛」を表現したからだ。
「愛」というものを大別すると 愛は「異性の愛」「同性の愛=友情」「家族愛」などに大別されるが、 メビウスは人間とウルトラマンとの友情(愛)を綴った作品であったからと言える。
価値観が多様化している昨今であるからこそ、人は普遍的なものを強く求めるようになる。 自分はどう生きたい、どうあるべきかという原点や初志に立ち返りながら、最も基本ともいえる。「愛」というものを 深く追い求めるようになる。
ウルトラマンで、描かれる「愛」。勇気、根性それらすべての根底にあるものは愛である。 人間を愛するウルトラマンの愛を「アガペー」(神の、人間に対する自発的、無条件的絶対愛)に近いものとするなら、人間が それに応えてる努力をしたということだろう。
無心に愛してくれるウルトラマンに必死で応えようとする愛。この姿に深く感動させられた。
未来を継ぐ「ウルトラマン」
吉田松陰は「夢なきものに成功はなし、夢を持たないものは理想もない。 理想がなければ計画がない。計画がなければ実践などあるはずがない。」 といった。
ウルトラマンなどのこども向け番組には、未来を目指すこどもに向けて、こういった要素が多く入る。 未来への希望や夢を描く作品は、ドラマや映画の中に意外に少ないことをお気づきだろうか
大人になっている人に未来というと、老後を連想するからかもしれないが、未来に夢が見られるというのは、 実質は、短い時間であるのかもしれない。
未来を担うこどもへの作品は、それだけに貴重で、重要な役割のある作品であるということだ。
人の内なるものからの叫びである作品、なかでも、こども番組を制作される方は、 たくさんの人の痛みを自ら経験し、本当に人を愛する経験をし、未来あるものをいとおしく 思え、 未来ある命を愛しめる人からの「心からの言葉」を伝えるものであって欲しい。
それは今、ここに存在するすべての人々がきっとみんな幸せになれるよう、未来への指きりげんまんとして。
最後になりましたが、ウルトラマンメビウスのスタッフのみなさま素晴らしい作品をありがとうとございました。
円谷各関係者のみなさまいつもご理解をいただきありがとうございました。
CBC中部日本放送さま、素晴らしい力のこもった公式サイトありがとうございました。
電通関係者のみなさま、未放送地区へのお力添えありがとうございました。
バンダイさま、「夢・クリエイション」まさにバンダイさまの姿勢をいつも作品を通して拝見いたしております。 ありがとうございました。
ウルトラマンシリーズに携わるすべてのみなさまありがとうごいました。
そして、つたないサイトですが、当サイト「メビウスベルト」を愛してくださったすべてのみなさまに心から感謝いたします。 本当にありがとうございました。
いつかウルトラマンシリーズが復活した暁にはまた、再会できることを夢に見て。(完)
メビウスベルト管理人 レイゴ
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